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戦艦金剛 予行演習 [戦艦金剛]

 10月6日、ガダルカナル島への砲撃は、
10月13日夜と決まりました。

 金剛艦長小柳大佐は、浮田砲術長に、
「金剛は11日に、トラックを出発する」旨の
連絡と、準備状況の質問をしました。

 浮田砲術長は、今日夜間の三式弾試射を行う旨の
返答をしています。続けて、航海長に海岸の焚き火に
よる距離測定は大丈夫か確認しました。航海長は、
今夜の仕上げで実戦は大丈夫だとしています。

 艦長は、砲術長と航海長に対し、ガダルカナルを
とるか、とられるかの運命がかかっているので、
よろしく頼むとしています。

 この日の訓練は、金剛と榛名が、午後1時に抜錨し、
徹甲弾の昼間試射を行いました。そして日没まで待ち、
海岸でたかれる焚き火を確認しました。

 焚き火を確認すると、艦長の「戦闘用意」の号令が
下されました。続いて、浮田砲術長が、各砲台に号令を
下しました。今回は、焚き火の灯火にを利用した間接射撃と
なるので、焚き火と金剛の間の距離は、重要でした。

 距離を測定すると、そのデータは、黒木大尉のいる
発令所に送られ、砲弾を撃ち込む目標までの距離を
算出しました。算出が終わると、打ち方始めの号令が
かかりました。今回は訓練なので、三式弾は一発のみ
でした。

 目標までの距離は24kmなので、着弾まで1分間近く
かかることになりました。弾着の号令とともに、海岸に
花火が上がりました。但し、砲弾なので、上がるというより
斜めに放射されたという感じになりました。

 浮田砲術長は、「きれいだ」と声をあげていました。
そして黒木大尉に、「成功だ。三式弾の分散状態も
悪くない」と報告しています。黒木大尉は、「了解
しました」という返答をしています。


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戦艦金剛 砲弾の準備 [戦艦金剛]

 金剛が所属する第三戦隊の旗艦は、金剛が務めて
いました。司令官は、栗田中将(レイテ沖海戦で謎の
反転をした方)です。金剛の艦長は、小柳富次大佐、
榛名艦長は、石井敬之大佐でした。

 小柳艦長が、浮田砲術長に、「均等に弾丸を降らせる
ということだが、大丈夫かね」とやや心配そうに尋ねました。
浮田砲術長は、「鋭意研究中です」と返答し、黒木大尉の
方を見ました。

 黒木大尉は、「千発も撃つとなると、強装薬ではいけま
せん。弱装薬でいきましょう」と意見具申しています。

 砲弾については、最優先を三式弾を主体として、
零式弾、徹甲弾の順に準備しました。

三式弾は、500発の焼夷榴散弾をつめたもので、
爆発すると、500発の焼夷榴散弾と鉄の弾丸が
四方に散らばり、飛行機や施設を破壊するものです。

 零式弾は、1000発の榴散弾をつめたもので、
陸上施設や兵員を倒すのに使用するものです。

 徹甲弾は、艦隊戦を行う時に使用するものですが、
地上要塞やトーチカを破壊するのに有効でした。

 金剛が、準備をしている10月6日、陸軍の
百武司令官が、駆逐艦に守られて、上陸を
果たしました。この時、1万人もの人員を
送っていますが、重火器は駆逐艦では
運べず、輸送船が必要でした。

 輸送船を上陸させるためにも、金剛らの砲撃が
必要となってきました。

(追記)
 砲弾は、弾丸と装薬に分かれます。弾丸は
飛んでゆく方で、装薬は弾丸を打ち出す火薬です。
強装薬ならば、最大射程の38km飛ばすことが
できますが、その分主砲の痛みが早くなります。

 今回の場合、23kmほどの距離なので、強装薬に
する必要はなく、主砲の痛みが少ない弱装薬として
います。


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戦艦金剛 砲術長と発令所長の関係 [戦艦金剛]

 戦艦が砲撃を行う手順を紹介します。

 前甲板にある高い櫓マストの最上部に
主砲射撃指揮所があり、砲術長はここで
任務に当たります。

 しかし、敵の動きを元に、データを算出
するのは、櫓マストの下方、防御甲板の
下にある発令所の役目でした。ここに、
計測データが送られます。

 ここには、射撃盤があり、多くのデータを計算し、
主砲の射角や方位を決定するコンピュータの役割を
しています。この計算データを、射撃指揮所にある
方位盤に送ります。

 方位盤には、射手と旋回手がおり、送られてきた針の
動きに合わせて目盛を合わせるという作業をします。
この作業を、追尾といいます。追尾は、各主砲でも
行われ、主砲の旋回と仰角の調整を行います。

 追尾が完了すると、砲術長の命令で、射撃が開始
されます。このとき、追尾がうまくいっていないと、
砲弾が発射されないということが起こります。これは、
砲塔員全員の恥としている行為で、追尾は訓練に
おける重要項目でした。

 この様な手順なので、発令所の射撃盤の計算が
ずれていれば、砲撃しても、砲弾はまったく違う
ところに飛んでいくことになり、意味をなさなく
なります。

 浮田砲術長は、広域への散布射撃という、まったく
やったことがない射撃に対して、発令所で計算を
担当している黒木大尉に期待していました。

(追記)
 砲撃には、敵と味方の動き、風向、風速、砲弾の
速度などを考慮する必要があります。射撃盤で
計算するのは、これらのデータとなります。

 そして、このデータを採取しているのが、
測定分隊で、金剛では、大尉になったばかりの
方でしたが、浮田砲術長は、信頼置ける人物と
見ていました。


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戦艦金剛 広域散布射撃 [戦艦金剛]

 連合艦隊砲術参謀の渡辺中佐は、居並ぶ艦長、
砲術長を前に説明を始めました。

 内容は、「第三艦隊の金剛と榛名、巡洋艦五十鈴、
駆逐艦9隻を持って、挺身攻撃隊を編成する。
トラック島を10月11日に早朝に出撃し、10月13日の夜に
主砲で砲撃せよ。砲弾は、徹甲弾、零式弾、三式弾を
混合し、射撃弾数は1000発までとする」と言うことでした。

 浮田砲術長は、ここまでは頷いて聞いていました。
しかし、次の命令にはドキリとしました。

 「射撃要領は、2200mの滑走路を中心とする正方形を
設定し、これを25区画に分け、各区にまんべんなく落ちる
ようにせよ。」と言うものでした。

 これまで、戦艦による砲撃は、敵戦艦に砲撃を集中させる
ことに限定していました。広い範囲に、散布射撃することは
想定しておらず、うまくいくか自信はありませんでした。

 浮田砲術長は、この問題に対して、発令所長として勤務
している黒木大尉のことを考えていました。黒木大尉は、
浮田砲術長の10期後輩ですが、トップで卒業した天才で、
頭の切れは、砲術関係でも定評がありました。

 浮田砲術長は、黒木大尉なら、広域に均等に散布射撃を
するという今回の作戦に対して、算出をしてくれるだろうと
考えました。

(追記)
 この作戦に参加した駆逐艦9隻は、陽炎型駆逐艦の
黒潮、親潮、早潮、白露型駆逐艦の海風、江風、涼風、
夕雲型駆逐艦の高波、長波、巻波です。

 著書に記述がなかったのは、著者の豊田氏が駆逐艦を
省いたと言うわけではなく、連合艦隊司令部は、駆逐艦を
軍艦として勘定していなかったため、砲術参謀が駆逐艦に
ついては名前をあげなかったと思われます。


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戦艦金剛 砲術長の思い [戦艦金剛]

 白井大尉らが、戦艦が出撃してくるのであれば敵は
イチコロだと考えていたころ、連合艦隊司令部旗艦大和の
長官公室では、砲撃を担当する艦の艦長や艦隊参謀、
砲撃長が集まって、白熱した議論が行われていました。

 陸上の飛行場の破壊は、航空隊の仕事で、戦艦が
担当するようなものではないとう意見も出ていました。
これについて、金剛の砲術長だった浮田中佐は、
積極的に砲撃したいと考えていました。

 戦艦は、開戦以来主砲を撃つ機会がありませんでした。
この頃は、トラック環礁でゴロゴロしているというのが正直な
感想でした。そのため、陸上だろうとどこだろうと、砲撃
することで、士気をあげるべきだと考えていました。

 ひとわたり意見が出たところで、山本長官が、「戦艦に
よるガダルカナル島飛行場砲撃は、万難を排して実行
する。」と発言し、一座はシーンとなりました。

 山本長官は、ガダルカナルの攻略に関し、陸軍に対して、
「大和をガ島に乗り上げてでも、陸軍を無事に上陸させる」
としています。されに、飛行場の攻略には、我が方にも
考えがあるとしています。

 山本長官は、早くから飛行場を戦艦で砲撃する
という考えを持っており、ある程度成算があることを、
確認していました。

(追記)
 浮田中佐は、開戦前の1941年4月に金剛の砲術長に
なっています。開戦時、イギリス東洋艦隊の出撃に備えて
いました。プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの2隻が
出撃したと聞き、戦闘になると考え、張り切っていました。

 しかし、これら2隻の戦艦は、航空機の攻撃により撃沈
してしまい、金剛の出番はありませんでした。このことが
あったので、浮田砲術長は、上記の作戦に、かなり積極的
だったと言えます。


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戦艦金剛 奇妙な命令 [戦艦金剛]

 1942年9月末に、優勢なアメリカ軍に包囲されて、
苦戦をしているガダルカナル島のエスペランス岬に
近い海軍陸戦隊司令部に、日本の攻撃機から
通信筒に入れられた奇妙な命令書が投下され
ました。

 司令部は、部隊を率いている中隊長に、命令を伝達
しました。命令を受けた中隊長の白井大尉は、怪訝な
顔をすることになりました。

命令は、
 1. ドラム缶を二つに切断したものを10個用意せよ。
 2. ボロ切れを丸めて直径5cm、長さ10cmの円筒形に
したものを、100個用意せよ。
と言うものでした。

 白井大尉は、真意をつかむことはできませんでしたが、
司令部の命令どおり準備しました。

 準備すると司令部から次の命令がきました。

 これらを、指定日(X)に、ボロ布に油を染み込ませ、
次の地点で焚き火を行うべし。
エスペランス岬、タサファロング岬、クルツ岬

 さすがに意味不明の命令を2回も受け、白井大尉は、
参謀長に意味を問いただしました。ここは赤道直下なので、
焚き火の必要はなく、意味不明では、部下を督促することも
できないと訴えました。

 参謀長は、白井大尉に戦艦金剛と榛名で、ヘンダーソン
飛行場を砲撃するということを伝えてくれました。白井大尉は、
この話を聞き、これならば効果があると考え、張り切って、
部下に事情を説明して、焚き火の命令を行いました。

(追記)
 陸戦隊にとって、戦艦が出撃してくるというのは、
心強いと感じていました。敵艦隊や輸送船もイチコロ
だろうと考えていました。

 白井大尉は、夜間の戦艦主砲による焼夷弾による砲撃を、
時期は遅いがガダルカナルの花火見物としようなどと
語っています。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

戦艦金剛 再会 [戦艦金剛]

 この話は、1973年(昭和48年)に、金剛が
ガダルカナル飛行場を砲撃したとき、古参の
大尉として、主砲発令所長として勤務していた
志摩亥吉郎氏が、同じく金剛の砲術長を
努めていた浮田信家中佐(最終階級は大佐)の
家を訪れるところから始まっています。

 志摩氏は、ガダルカナル飛行場の砲撃を行ったときは、
黒木姓で浮田中佐を助けて、敵陣に飛び込み、広域散布
射撃という特殊な陸上砲撃を行っています。ガダルカナル
飛行場の砲撃は、1942年ですので、30年経過している
ことになります。

 約束の時刻ピッタリに到着した志摩氏に対して、
海軍の不文律である5分前到着の精神を未だに
守っていた浮田氏は、既に到着していました。

 浮田信家中佐は、金剛に乗艦時は、名前と
仕事ぶりから、関ヶ原の合戦で西軍として
活躍した武将の、″宇喜多秀家″の名前で
呼ばれていました。

 志摩氏は、レイテ沖海戦で志摩艦隊を引きいた
志摩清英中将の養子になっていたので、黒木姓
から志摩姓となっています。最初は、近況報国を
していた二人ですが、金剛のガダルカナル飛行場
への砲撃に話が移っていきました。

 太平洋における海戦では、主役が飛行機になっていた
こともあり、戦艦が自慢の主砲を撃つことが稀となって
いました。その中で、900発もの砲弾を、敵に向けて放ち、
一定の戦果をあげているのは、戦艦の面目を保ったといえます。

(追記)
 宇喜多秀家は、豊臣秀吉から秀の字をもらうなどして、
秀吉の寵愛を受け、五大老の一人として活躍して
います。関ヶ原では上記のとおり西軍として
参加しており、合戦後八丈島に流されて
います(公式の記録上、初の流人)。

 宇喜多秀家は、八丈島で84才まで長生きしており、
この時、江戸幕府は、4代目の将軍の治世となって
いました。個人的は、宇喜多秀家のすごいと感じる
ところは、この長生きしたところです。


紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘

戦艦金剛諸元 [戦艦金剛]

 「航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘」の著書には、
戦艦金剛の話が掲載されています。話です。
そちらも紹介していきます。

 戦艦金剛の諸元をWikipediaから抜粋してみます。

起工(工事を始めた時期):1911年1月17日
進水(始めて水に触れさせた時期):1912年5月18日
竣工(工事が完了した日) 1913年8月16日
撃沈 1944年11月21日

竣工時→改装後
排水量 26,330 t→32,720t
全長 214.6m → 219.4m
全幅 28.0m → 31.0m
主機 蒸気タービン2期4軸 64,000馬力
   →蒸気タービン4基4軸136,000馬力
速力 27.5kt→30.3kt
航続距離 8,000浬(14 kt時)→ 9,800浬(18 kt時)
乗員 2,367名
兵装 45口径毘式35.6cm連装砲4基
   50口径四十一式15.2cm単装砲16基
   53cm水中魚雷発射管
 → 45口径毘式35.6cm連装砲4基
   50口径四十一式15.2cm単装砲8基
   12.7cm三連装高角砲6基
   25mm三連装機銃18基 連装機銃8基 単装30丁
装甲 水線203mm 甲板70mm

 金剛型戦艦の一番艦ということで、以前紹介した
二番艦の比叡とかなり似ていますが、微妙に差が
あります。


 この話も武蔵と同様に、短編という形で、金剛と榛名の
ガダルカナル飛行場砲撃作戦について記載しています。

 以前比叡で紹介しています通り、金剛と榛名の砲撃は、
一定の戦果をあげましたが、この後に行われた比叡と霧島は
両艦共に撃沈するという対照的な結果になっています。

(追記)
 金剛は、金剛型戦艦の一番艦として、艦これには
初期のころから実装されており、現時点では、
艦これに登録されている艦の中で、就役日が
もっとも早い艦(一番年上)ということになります。

 金剛の名前を持つ軍艦は、初代は日露戦争に
参加した軍艦、二代目が、紹介する戦艦金剛、
三代目が現在イージス艦として活躍している
軍艦となります。


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