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戦艦金剛 砲撃の後 [戦艦金剛]

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 今回の作戦で、金剛と榛名から合計で12名の
死者を出しています。これは、敵の攻撃による
ものではなく、砲塔の下部にある弾薬庫が
あまりの高温になったことによる熱射病による
急死でした。

 主砲の連続発射は、この様な危険があることを示した
事例と言えます。


 トラック島へ帰還する艦内で、「一回目は成功したが、
二回目以降はどうなのか。敵軍が何もせず指をくわえて
見ているということはないだろう」と考えていました。

 トラック島に帰還し、戦況を報告すると、議論が沸騰
しました。「それだけ効果があるなら、連日でもやるべきだ」
という意見と、「奇は孤なるをもってよしとする。複となすは
不可なり。」という孫子の言葉を引用した意見もありました。

 討議終了後、山本長官は、「再度戦艦を使用するかは
検討課題。しかし、輸送船の護衛の巡洋艦や駆逐艦は、
敵陣の砲撃をするように工夫すればどうか」という意見を
言っています。

 (輸送の護衛で手が一杯になる駆逐艦や巡洋艦が、
砲撃までする余裕があるとは思えず、到底不可能と
いえます)。

 浮田砲術長は、11月5日付けで、金剛を退艦し、
陸上勤務となりました。11月9日、黒木大尉らに
見送られて、水上機母艦千歳に便乗して、
佐世保に向かいました。

 浮田砲術長は、出発した日、比叡と霧島が挺身隊と
して出発したことを電報で知りました。船上で成功する
ことを祈りましたが、敵艦隊と砲撃戦となり、陸上砲撃は
中止となりました。しかも、比叡、霧島が撃沈したという
ことを続報で知りました。

 金剛による砲撃戦から30年後、当時のことを、黒木大尉と
語り合った浮田砲術長は、「戦争は遠い昔となった。しかし、
人間の努力と、そこから生じた教訓は、消えることはないで
あろう」として結んでいます。



紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘


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