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巡洋艦大淀 幸運な艦 [巡洋艦大淀]

 海軍特年兵之碑が建立された東郷神社は、 東郷平八郎大将を祀っている神社ですが、 東郷大将は、本来日露戦争前に退役が 内定していました。これを、山本権兵衛 海軍大臣が推挙しました。  明治天皇が推挙の理由を訊くと、 「運が良い」と言った有名な話が ありました。小淵氏は、大淀は、 駆逐艦雪風に伍する幸運な艦である としています。  飛渡瀬沖に没した大淀は、村の人が いちはやく慰霊碑を建て、現在も慰霊の 行事を続けています。飛渡瀬小学校の 児童も碑の清掃をしてくれているという ことで、大淀は、沈んでも幸運に恵まれて いるとしています。  大淀の碑は、戦後間もなく毎日黎明に ラッパの音が聞こえ、号令のような叫びと 甲板を駆ける足音が艦の方から聞こえて くるので、アメリカ軍に陳情して黙認の形で 建立し、以降は聞こえなくなったという 逸話があります。  日本海軍最後の勝ち戦と言われた 礼号突入で、大淀は、艦の中央部である 弾薬庫付近に爆弾を受けており、爆発 していれば轟沈間違いなしでしたが、 不発だったため穴があいただけで 済みました。  大淀の幸運に感謝すべきか、アメリカ軍の 爆弾係か、機長に感謝すべきか・・・として いますが、幸運であることは間違い ありません。しかも、内地で没したので、 艦が沈むことによる渦に巻き込まれることは ありませんでした。  小淵氏は、大淀の慰霊祭も、特年兵の 慰霊祭にも動ける限り、欠かさず続けたいと 念願しているとして、著書を終わらせています。  このブログは、今回で終わりになります。 長きに渡りお読み頂きありがとうございました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 海軍特年兵之碑建立に奔走 [巡洋艦大淀]

 海軍特年兵之碑を建立するに当たり、 「特年兵などは小さな兵隊なのだから、 潜水艦の碑の裏に、小さいのを立て ればよい。あんな良い場所はだめだ。」と 強硬に反対されました。  「太平洋に向けて建てたい。」という要望を 伝えると、「日本はどちらを向いても海だ。」と 言われました。散々探してようやく東郷神社に お願いすることにしたものの、「碑など建てる ことは絶対に許可できない。」と拒否され 続けられました。  しかし、特年兵は世間に全く知られて いない年少の兵士であることに、奇異の 感じを受けたのか、「全国的な規模なら 話に乗る。」となりました。  それまで、横須賀鎮守府所属の 一期生のみの発起人でしたが、呉、 佐世保、舞鶴などの人達も捜し 出したので、なんとか全国的な 組織となりました。  しかし、碑を建てる資金がありません でした。一期生の有志は、資金集めに 奔走しましたが、なかなか目標に 達しませんでした。  それは、「東郷神社では碑を建て させないと言っている。死んだ者のこと など坊主に任せて、生きている者同士が 楽しくやるのが戦友会だ。」と、仲間に 寄付をやめさせる者もいたからでした。  そのようなこともありましたが、第二期、 第三期、第四期も会を結成して資金集めに 協力してくれたので、碑はようやく願望の 場所に建立することができました。  碑の建立により、特年兵のこともようやく 世間に知られるようになり、新聞やテレビに よる宣伝も大いに励みました。  映画会社も心を動かし、新国劇映画が 映画化を企画しましたが挫折し、東宝が 引き継いで、今井正監督の「海軍特別年少兵」 として公開されました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 長い果てしない航跡 [巡洋艦大淀]

 飛渡瀬の村と、大淀の乗員には、交流が ありました。出身地を関東以北に持つ大半の 大淀乗員は、飛渡瀬が、第二の故郷のように 思えていました。  時局の緊迫した当時は、目的を同じくする という心のふれあいが厚かったとも言えました。 大淀の乗組員は、艦をあげて村の人達と交流し、 荒れ地の開墾や、食糧の増産に人手の不足 している家々の手伝いをして、村の人達の中に 溶け込んでいました。  艦長や首脳部も、理解していました。 それに対して、飛渡瀬の人々は、大淀の 乗組員を家族の一員のように思って 遇してくれました。  短い期間の内に結ばれた絆ではあり ますが、それが、今も生き続けていました。 大淀は、飛渡瀬の海岸で永遠に航跡を 絶ちました。  艦とともに散った多くの人たちの霊は、 飛渡瀬の海岸で永遠に航跡を絶ちましたが、 艦とともに散った多くの人たちの霊は、 飛渡瀬の人々の温かい真心に感謝 しながら、遠い遠い黄泉路の旅に、 長い果てしない航跡を、今もなお 曳き続けていることである。  ここで、著書の本編を終わらせて います。  あとがきとして、小淵氏のような 海軍特年兵を祀った碑について 記しているので、紹介していきます。  「海軍特年兵之碑」は、原宿の 東郷神社境内に、1971年(昭和46年) 5月16日に建立され、除幕式が執り 行われました。  しかし、この碑を建立するには、 大変な苦労がありまいた。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 解体 [巡洋艦大淀]

 英霊の遺体は、夏草の生い茂る堤防下の 海岸で、仲間の手により、荼毘に付されました。  その煙は、3日3晩、空の彼方へと昇り続け ました。遺骨は村の妙覚寺に安置され、住職の 手厚い法要が営まれた後、それぞれの家郷に 帰っていきました。  7月24~28日の空襲で、伊勢、日向、榛名の 戦艦3隻は、それぞれ大破擱座し、伊勢の 艦長だった前大淀艦長の牟田口大佐も 防空指揮所に直撃した1弾で壮烈な 最期をとげられました。  重巡洋艦の青葉と利根が、大破擱座し、 空母の天城が、大破横転しました。葛城が 大破、出雲が大破横転、磐手が大破擱座、 北上が大破航行不能となり、ことごとく撃破 され、瀬戸内海にいた軍艦のほとんどが、 航跡を閉じました。  大淀は、終戦後の1947年暮れに、生まれ 故郷の呉に浮揚曳航され、第三船渠で解体 されました。鋼材は焦土となった日本本土の 復興資材と化しました。  生まれ落ちた母校に戻って生涯を閉じた 大淀は、幸せな艦というべきだと、小淵氏は 語っています。  それにも増して、小淵氏ら大淀乗員を 感激させているのが、戦後間もなく、最後の 戦闘で大淀を支援してくれた飛渡瀬の 村人が、海岸に大淀戦没者の慰霊碑を 建立してくれたことでした。  これは、今も大淀の戦没者の冥福を 祈っているということでした。村には、 大淀会という子供会もあり、碑を護って いるということでした。大淀がいたことで、 村にも爆弾が投下されました。  それでも、村の人々は、大淀に救援を 惜しみなく与え、その誠心が今なお継続 されていました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 凄まじい乗組員の闘魂 [巡洋艦大淀]

 艦を離れた乗組員は、負傷している 戦友をかばいながら、陸上に退避しました。 すでに事切れている戦友をつれて、浜辺に 泳ぎつく者もいました。  この戦闘中、電探士の森田中尉は、 残っていた内火艇で、重傷者を次々と 陸上に護送していました。  敵機は激しく銃撃してきましたが、巧みに 回避しながら、横転しつつある大淀から、 重傷者をことごとく陸上に収容しました。  陸上に運ばれた重傷者は、24日同様、 堤防沿いの道路に設けられた仮救護所で 村人たちの応急手当を受けました。道路に 横たわっていた重傷者は、誰からともなく、 「海行かば」を唱え始めていました。  その中にあって、高角砲分隊の杉山上曹は、 こぶしを振り上げながら立ち上がり、上空に 来襲した敵機をにらみつけ、「撃て、はやく あの敵機を撃ち落せ。」と絶叫し、事切れました。  重傷者は防空壕に収容されましたが、 重傷者のうちの何人かは、聖上の万歳を 叫びながら、絶命しました。最期まで凄まじい 闘魂を、燃やし続けていました。  近くの防空壕に退避していた兵学校の生徒は、 何人かが顔を出して頑張れと運び込まれてくる 重傷者に、声援を送っていましたが、手伝うことは できませんでした。あまりにも凄まじい乗組員の 闘魂に、気後れして手を出せなかったようでした。  この日の戦闘で、小淵氏と同郷で、一緒に 里帰りした角田上水(この当時兵長)も、戦死 しました。他にも多くの戦友や先輩が、勇敢に 戦い散っていきました。  (小淵氏が大淀を降りた後の戦闘については、 小淵氏が、田口艦長の手記と、最後まで大淀に 乗り込んでいた先輩の談話を参考に記述して いるとのことです)。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 総員退去 [巡洋艦大淀]

 敵の機動部隊が再度の襲撃をかけて きたのは、28日でした。24日に通信室を 破壊された大淀は、適確な情報は 得られませんでしたが、来襲は 予想していました。  多くの対空火器を失っている大淀は、 迎撃の砲火も途絶えがちであるのに対し、 敵機は、巧妙を極めました。  山陰から不意に現れ、機銃掃射で 甲板上の戦闘員を幻惑し、上空では 四方八方からそれぞれの高度をとって 交互に水平爆撃してきました。  さらに、水平爆撃の間隙をついて、 低空から急襲と、急降下で突入するという、 考えられる限りの猛襲を続けてきました。  立ち昇る水柱は、艦の周りを飛瀑の ようにさえぎり、視野の開けているのは、 艦の真上のみという状態が、断続しました。  この激襲に、さしもの大淀も力尽き、 刻々と右への傾斜を深め、必死に応戦 する甲板上の戦闘員も海中に滑り 落ちる者が続出しました。  艦は、炸裂する直撃弾や至近弾に 煽られるように傾きを深め、25mm機銃も 旋回不能となりました。  もはやこれまでと無念の涙を呑んで、 田口艦長は総員退去を命じました。 田口艦長自身は、防空指揮所に残ろうと しました。かし、艦首脳部の数名は、艦長の そばを離れず、退去の命令には応じません でした。  大淀は、急激ではないものの、次第に 傾いていきました。強靭さを証明するように 静かに横になり、左舷の真半分を水面上に 残し、擱座の状態になりました。  7月24日と、28日の戦闘で、大淀は、 223人の戦死者と180余の負傷者が 出ました。これは、乗り組んでいる乗員の 過半数の人員でした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 飛渡瀬の村人 [巡洋艦大淀]

 大淀が襲撃を受けている時、これを 見ていた飛渡瀬の村人が、手押し ポンプをバケツを漁船に乗せて 漕ぎ寄せ、勇敢な男女青年団の 数人が大淀に上がって消火作業を 懸命に手伝ってくれました。  「江田島を護ってくれる大淀を沈めては ならないぞ。」と、村人達は、敵機が去ると すぐに浜にある漁船を全部押し出して 漕ぎ寄せました。  しかし、艦内の消火作業は、あまりにも 危険なため、重傷者の搬送と看護お願い しました。  堤防沿いの道路にむしろを敷いて、仮の 救護所を作られ、負傷者は、村人の手厚い 看護を受けました。それと、戦死者は、村の 妙覚寺に運ばれて安置されました。  村の人々の救援に奮い立った乗組員は、 誘爆する機銃弾もものかはと、火中におどり 込んで、延焼を食い止め必死の消火に 務めたので、さしもの劫火も次第に弱まり ました。  しかし、各所を破壊されている大淀は、 密閉消火ができず、下甲板以下は 依然として燃え続けていました。  乗組員は、早朝からの激戦に、飲まず 食わずで奮闘を続け、昼の戦闘配食を 用意していた烹炊所員が全員散華 したので、空腹と披露は極限に 達していました。  村の青年団から炊き出しの握り飯や 水が届けられたのは、日没近くでした。 この炊き出しで元気づいた乗組員は、 夜を徹して消火作業と艦内の修復に 励みました。  しかし、艦内火災は容易におさまらず、 ようやく消し止めたのは、翌日の夕刻 でした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 着底 [巡洋艦大淀]

 その後、大淀は、第四波、第五波と来襲する 敵機の大群に、艦中央の右舷に直撃弾を受け、 4番砲塔が破損しました。  大淀は装甲が薄く、軽快な動きで回避する ことが得意な艦ですが、この時は、前後を 繋留され、動くことはできませんでした。  損傷した大淀は、砲撃能力が激減し、その 虚をついて投下された爆弾が、第二砲塔背後の 通信室を貫通し、中甲板で炸裂し、通信室は、 跡形もなく吹っ飛びました。余波で、艦橋や 防空指揮所にいた数10名も死傷しました。  下甲板も火を発し、下甲板以下の配置の者は 脱出不能となり、主砲弾薬庫も誘爆の危機となり、 注水が命じられ、弾薬庫員は、艦を救う人柱と なりました。  かつて小淵氏がいた主砲発令所員も閉じ 込められ、脱出不能となりました。通風口を 切断して救助されたのは、敵機襲撃後 10数時間も経過してからでした。  午後4時に、敵機は姿を消しましたが、 大淀艦内は、火災が猛威をふるい始め、 爆風で飛散した機銃弾が各所で 誘爆し続けていました。  通信室の炎は、防空指揮所まで燃え 上がりましたが、指揮を取っていた 田口艦長は、足下にせまった劫火の 上で、不動明王のように立って 指揮していました。  大淀は、破口からの侵水で右に傾きつつ ありました。この状態で意を決した艦長は、 キングストン弁の開放を命じ注水しましたが、 着底していた大淀は沈下せず、復舷しました。  大淀は、この戦闘で百数十名の戦死者と、 百名前後の負傷者を出しました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 闘魂の昇華 [巡洋艦大淀]

 敵機との距離2万mで、大淀の主砲が 初弾を発射すると、12秒間隔で速射を し続けました。  大淀得意の先制砲撃でした。この斉射で 数機が撃墜され、編隊が解かれ、四方八方 から突入の構えをとり、矛先が大淀に 向けられました。  左右の高角砲も射程内に突入した敵機に 速射を始め、その間隙を縫って肉迫する 敵機には、25mm機銃が猛然と火を 吐きました。彼我の発する轟音は、 天地にこだまし、激騒は江田島を 覆いました。  幾百となく林立する水柱は、滝つ瀬となり、 絶え間なく艦を洗いました。炸裂する至近弾は、 海底の泥砂を吹き上げ、破片は、艦腹を叩き、 爆波は激しく艦をゆさぶり続けました。  大淀の対空砲火は、あらん限りの猛射で 殺到する敵機に咆哮し、突入を阻止し続けて いました。それは、まさに全乗組員の烈火の ごとき闘魂の昇華でした。  やがて第一波の敵機は去りましたが、その 静寂もすぐに破られ、第二波が来襲し、上空を 覆いつくしました。再び、轟音の世界に没した 江田島湾の大淀周辺は、何百条という水柱が 昇立して、敵機の猛襲が開始されました。  第二波が去り、新手の第三波が来襲すると、 猛烈な襲撃が継続されました。この間断なく 来襲する敵機に、大淀は、ついに直撃弾を 受けました。その1弾は、機銃甲板を貫通し、 烹炊所で炸裂すると、20数名を一瞬で 死傷させました。  それまで整然としていた艦内が、直撃弾で 火災が発生し、清美な艦内は、たちまち 凄惨な修羅場と化しました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 日本海軍最期の艦隊作戦 [巡洋艦大淀]

 小淵氏が退艦した後の大淀について 紹介します。大淀は、江田島湾に回航され、 海岸から300mほど離れた浅瀬に前後部を 繋留して防空砲台の役目につきました。  日本海軍最期の艦隊作戦である水上 特攻として、大和など10隻が出撃し、 生き残った4隻の駆逐艦以外撃沈しました。 この艦隊には、小淵氏と同じ特年兵が 多数参加していました。  以前紹介した井上氏も、駆逐艦磯風で 出撃しています。もうひとり、磯風に乗り 込んでいた特年兵の島崎氏は、磯風と 運命をともにしています。  大淀から、矢矧に引き抜かれて参戦した 飛行分隊の多くが、戦死しています。  この頃、大淀ら内地にいる艦隊は、燃料 不足で航行できず、甲板上に松の木や 杉などを乗せて偽装していました。  しかし、B29から、「松が枯れて茶色に なっているので、植え替えてはいかがで しょうか。」というビラが撒かれる始末 でした。  敵の機動部隊が四国の土佐沖に来攻 したのが、7月24日未明でした。この情報を 2日前につかんでいた日本軍は、万全の 準備を整えて敵機の出現を待ちました。  午前7時、大淀は、電探で敵機の来襲を 補足しました。大淀は、艦長の交代や乗員の 移動がありましたが、歴戦のベテランは 残っていました。冷静に対空戦闘の開始を 待ち構えていました。  江田島の陸上では、空襲警報のサイレンが 悲鳴のように鳴り響き、各所の砲台が散発的な 射撃を開始しました。しかし、敵機は、陸上の 散発的な砲火など歯牙にもかけず、向かって きました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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