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戦艦比叡 再度の処分命令 [戦艦比叡]

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 1942年10月13日午後3時に、再度、阿部
司令官は、「比叡を処分する。生存者を至急
退艦せしめよ」という命令を出しています。

 万策尽きたと考えていた西田艦長は、命令に
服するしかありませんでした。西田艦長は、
断腸の思いで、「総員上甲板」の命令を
下しました。

 この命令は、艦内通信が使えないので、伝令に
より行われました。この時、伝令が艦の状況を確認
していればという考えもありますが、伝令は、艦長
命令をいち早く伝えることが役目であり、状況確認を
することはしませんでした。

 西田艦長のところに戻ってきた伝令は、艦内に
伝えたことのみを報告し、艦内の状況については
報告していませんでした。

 西田艦長は、艦橋に敵弾をくらった時、階段が、
煙突状態になってしまい、降りることができない
状態になりました。

 そのため、ロープで、第三砲塔の上に降り立って
いました。この行動で、対空戦闘時、比叡は、魚雷
一発と爆弾三発の被害に収まっています。

 第三砲塔からも、昨夜の砲撃戦ででた戦死者が
見えており、部下と艦を愛していた西田艦長は、
怒りに燃えていました。

 「お前たちだけでは死なせんぞ。艦長も一緒に
死んでやる。それで成仏してくれ」と願っていました。

(追記)
 副長や先任参謀以外にも、比叡には、艦を指揮
できる士官が多数乗り込んでいます。しかしながら、
士官は、怪我をしているか、配置の指揮をとって
いるか舵の復旧のため、現場にいました。

 これは、切れたアキレス腱の復旧を行っていた
ということになり、配置である場所の状況は把握して
いても、他の場所がどうなっているのか、全く分から
ない状態でした。

 緊急事態の時は、士官は、艦長との連絡を密にするため、
部下の何人かは、伝令として艦長とのやり取りをしなければ
ならないということを示しています。


紹介書籍:戦艦「比叡」 高速戦艦 悲劇の生涯


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