戦艦武蔵自沈 [戦艦武蔵]
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武蔵の総員退去の命令は、炭木兵長らが、
キングストン弁を開きに言っている間の
午後7時15分に、命じられました。
炭木兵長が、海に飛び込む前に服を脱ごうと
していると、近くに寝そべっていた遠藤兵曹に
止められました。海に飛び込むときは、靴だけを
ぬいで、他は着用していた方がよいということ
でした。重油で皮膚がやられるためということでした。
炭木兵長は、遠藤兵曹に、どうするのか聞くと、
「全身火傷だ。助からない。」という返事がきました。
遠藤兵曹の目には、覚悟の色が見えました。
炭木兵長は、上甲板まで達した海水に飛び込みました。
遠藤兵曹の、「できるだけ艦から離れろ」という声を聞きました。
これが、遠藤兵曹との別れとなりました。
炭木兵長があまり離れていないころ、武蔵は、スクリューを
空中の持ち上げ、転覆しました。大きな爆発が2回連続して
起こり、多量の水蒸気が、白い柱のように立ちのぼりました。
武蔵は、1944年10月24日午後7時35分に沈没しました。
炭木兵長は、7時間の漂流後、駆逐艦浜風に救助され、
年明けに台湾の高雄に上陸しました。しばらくして、内地に
戻され、新しい所属を待っているうちに、終戦となりました。
この後、銀座で小料理屋を開き、最初の場面となります。
(追記)
1971年(昭和46年)4月9日から、2週間にわたり、
フィリピン東シナ海方面、海上戦跡巡拝団が旧戦場を回って
英領を弔いました。
猪口艦長の未亡人や、副艦長加藤大佐、元乗員らが
参加して、行われました。
炭木兵長は、2週間も店を閉める訳にはいかず、参加
しませんでした。
紹介書籍:航空巡洋艦「利根」「筑摩」の死闘
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武蔵の総員退去の命令は、炭木兵長らが、
キングストン弁を開きに言っている間の
午後7時15分に、命じられました。
炭木兵長が、海に飛び込む前に服を脱ごうと
していると、近くに寝そべっていた遠藤兵曹に
止められました。海に飛び込むときは、靴だけを
ぬいで、他は着用していた方がよいということ
でした。重油で皮膚がやられるためということでした。
炭木兵長は、遠藤兵曹に、どうするのか聞くと、
「全身火傷だ。助からない。」という返事がきました。
遠藤兵曹の目には、覚悟の色が見えました。
炭木兵長は、上甲板まで達した海水に飛び込みました。
遠藤兵曹の、「できるだけ艦から離れろ」という声を聞きました。
これが、遠藤兵曹との別れとなりました。
炭木兵長があまり離れていないころ、武蔵は、スクリューを
空中の持ち上げ、転覆しました。大きな爆発が2回連続して
起こり、多量の水蒸気が、白い柱のように立ちのぼりました。
武蔵は、1944年10月24日午後7時35分に沈没しました。
炭木兵長は、7時間の漂流後、駆逐艦浜風に救助され、
年明けに台湾の高雄に上陸しました。しばらくして、内地に
戻され、新しい所属を待っているうちに、終戦となりました。
この後、銀座で小料理屋を開き、最初の場面となります。
(追記)
1971年(昭和46年)4月9日から、2週間にわたり、
フィリピン東シナ海方面、海上戦跡巡拝団が旧戦場を回って
英領を弔いました。
猪口艦長の未亡人や、副艦長加藤大佐、元乗員らが
参加して、行われました。
炭木兵長は、2週間も店を閉める訳にはいかず、参加
しませんでした。
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2016-03-20 18:00
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