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空母信濃 怒涛を乗り越え [空母信濃]

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 三つ子島に来て3日目、士気を振興させるということで、
猫の額ほどの狭い広場で軍歌演習が行われました。

 「如何に狂風 吹きまくも 如何に怒涛は逆巻くも・・・」と
寒さに唇を紫にして、がたがたふるえながら唄いました。
諏訪氏は、島での生活において、一番印象の残っている
事だとしています。

 この歌にあるように、怒涛を乗り越えようと必死に抵抗を
試みた、当時の自分達のことが生々しく浮かび上がった
としています。

 三つ子島での生活は、約1ヶ月続きました。年も押し迫った
28日~30日の3日間で、信濃乗員は、横須賀、舞鶴、呉、
佐世保へと転勤命令が下りそれぞれの任地へ赴任して
いきました。

 ただ、信濃の乗員は、空母の乗艦経験者ということもあり、
半数以上が、当時長崎造船所で建造していた笠置(かさぎ)の
艤装員として赴任していきました。この著書の主人公とも言える
電信班班長の河原春雄一曹も長崎に赴任しています。

 しかし、ここで、原爆の投下により、命を落としています。
諏訪氏は、戦後、サンケイ新聞の経済部記者を振り出しに、
論説委員などを勤めています。

(追記)
 空母笠置は、雲龍型の四番艦として長崎県の三菱重工
長崎造船所で起工され、1944年10月19日に進水しましたが、
1945年4月1日に、進捗84%の段階で工事が中止さています。

 その後、未完成の「笠置」は、長崎県の佐世保軍港付近に
放置され、戦後佐世保で解体されています。そのため、活躍の
場はありませんでした。この経歴を見ると、河原氏が原爆投下の
日に長崎にいた理由は不明です。


紹介書籍:沈みゆく「信濃」知られざる撃沈の瞬間  著者:諏訪繁治(すわしげはる)


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