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巡洋艦大淀 小淵氏、大淀を去る [巡洋艦大淀]

 大淀は、緊急修理を終え、出渠する日、 小淵氏は、高等科測的術幹部班練習生と して横須賀砲術学校への入校を命じられ ました。同じように選ばれたものが、 10数名いました。  兵長で高等科練習生に選ばれる者は 少ないと聞いていたので嬉しく思う反面、 限りない愛着を抱いていた大淀から 去ることが、たまらなく辛いと感じて いました。  1920年3月30日、先輩や戦友が 打ち振る帽子の波に見送られながら、 内火艇で上陸用桟橋に向かいました。 呉から横須賀までの汽車は、何事もなく 順調でした。  横須賀砲術学校についた小淵氏らは、 4月1日付で、第15期高等科測的術幹部班 練習生を命じられました。同時に、横須賀 警備隊所属となり、緊急時の戦闘編成に 組み入れられました。  この学校は、教頭に高松宮が着任されて いました。他に、小淵氏の小学校時代の 体育の教師であった木暮先生が応召 されており、上等兵曹として砲術学校の 剣道師範でした。  この頃の砲術学校は、陸戦訓練が主で、 艦船の訓練はほとんどなくなっていました。 多くの艦艇を消耗したので、必要もなく、 残っている艦艇も、燃料の欠乏で動きが とれませんでした。  訓練内容は、爆薬を抱いて敵戦車に 体当たりをする戦法か、タコツボに潜んで 跳び出すか、死体をよそおって近づく 戦車に跳び込むという、陸戦の 特攻訓練でした。  他にも、武器弾薬の類も底をついたためか、 鉄パイプを利用した手投弾などの製法や 使用法なども訓練されました。  しかし、俺らの訓練も20日ばかりで 打ち切られ、小淵氏は、最初に紹介した 三浦半島の砲台に配属されました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 牟田口前艦長大淀を訪れる [巡洋艦大淀]

 小淵氏は、大淀から来た交代要員に、 火葬の方法を申し継ぎしました。  すると、交代要員から、「俺達が火葬を するのか?」といてきました。「そうだ。」と 告げると、「番兵に行けと言われただけだ。」 と返答してきました。  それは小淵氏も一緒でしたが、火葬を することになったので、火葬場のおじさんに 交代することを告げて、大淀に戻りました。  帰り際、伊勢や日向の戦死者の棺と 行き違いました。大淀よりは少ないよう でした。  大淀に帰って朝食を済ませた小淵氏 でしたが、衛兵の当直番が回ってきたので、 衛兵所につめました。  昨夜は一睡もしませんでしたが、気が 張り詰めているせいか、少しも眠くありません でした。しかし、思考力はかなり低下して いました。  10時頃、伊勢の艦長になられていた 前大淀艦長の牟田口大佐が、大淀の 損傷を心配してやってこられました。  その時の状況を松浦艦長が、しきりに 説明していましたが、黙ってうなずいている だけでした。  無傷で戦い抜いてきた艦長としては、 大淀の損傷は、よほど残念だったと 思われました。大きな傷口をあけている 直撃箇所にたたずみ、牟田口大佐がは、 感慨無量の面持ちでじっと見つめて おられました。  小淵氏は、牟田口大佐にすがりついて 泣きたくなる衝動にかられました。力の 限り奮闘して、傷ついたのならあきらめも つきまいたが、思えば思うほど無念の 回頭でした。  大淀の緊急修理は、8日間もかかり ました。しかも、機関部に手痛い損傷を 受けていたので、以前のような快速は 出せないということでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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