SSブログ

巡洋艦大淀 長い果てしない航跡 [巡洋艦大淀]

 飛渡瀬の村と、大淀の乗員には、交流が ありました。出身地を関東以北に持つ大半の 大淀乗員は、飛渡瀬が、第二の故郷のように 思えていました。  時局の緊迫した当時は、目的を同じくする という心のふれあいが厚かったとも言えました。 大淀の乗組員は、艦をあげて村の人達と交流し、 荒れ地の開墾や、食糧の増産に人手の不足 している家々の手伝いをして、村の人達の中に 溶け込んでいました。  艦長や首脳部も、理解していました。 それに対して、飛渡瀬の人々は、大淀の 乗組員を家族の一員のように思って 遇してくれました。  短い期間の内に結ばれた絆ではあり ますが、それが、今も生き続けていました。 大淀は、飛渡瀬の海岸で永遠に航跡を 絶ちました。  艦とともに散った多くの人たちの霊は、 飛渡瀬の海岸で永遠に航跡を絶ちましたが、 艦とともに散った多くの人たちの霊は、 飛渡瀬の人々の温かい真心に感謝 しながら、遠い遠い黄泉路の旅に、 長い果てしない航跡を、今もなお 曳き続けていることである。  ここで、著書の本編を終わらせて います。  あとがきとして、小淵氏のような 海軍特年兵を祀った碑について 記しているので、紹介していきます。  「海軍特年兵之碑」は、原宿の 東郷神社境内に、1971年(昭和46年) 5月16日に建立され、除幕式が執り 行われました。  しかし、この碑を建立するには、 大変な苦労がありまいた。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

巡洋艦大淀 解体 [巡洋艦大淀]

 英霊の遺体は、夏草の生い茂る堤防下の 海岸で、仲間の手により、荼毘に付されました。  その煙は、3日3晩、空の彼方へと昇り続け ました。遺骨は村の妙覚寺に安置され、住職の 手厚い法要が営まれた後、それぞれの家郷に 帰っていきました。  7月24~28日の空襲で、伊勢、日向、榛名の 戦艦3隻は、それぞれ大破擱座し、伊勢の 艦長だった前大淀艦長の牟田口大佐も 防空指揮所に直撃した1弾で壮烈な 最期をとげられました。  重巡洋艦の青葉と利根が、大破擱座し、 空母の天城が、大破横転しました。葛城が 大破、出雲が大破横転、磐手が大破擱座、 北上が大破航行不能となり、ことごとく撃破 され、瀬戸内海にいた軍艦のほとんどが、 航跡を閉じました。  大淀は、終戦後の1947年暮れに、生まれ 故郷の呉に浮揚曳航され、第三船渠で解体 されました。鋼材は焦土となった日本本土の 復興資材と化しました。  生まれ落ちた母校に戻って生涯を閉じた 大淀は、幸せな艦というべきだと、小淵氏は 語っています。  それにも増して、小淵氏ら大淀乗員を 感激させているのが、戦後間もなく、最後の 戦闘で大淀を支援してくれた飛渡瀬の 村人が、海岸に大淀戦没者の慰霊碑を 建立してくれたことでした。  これは、今も大淀の戦没者の冥福を 祈っているということでした。村には、 大淀会という子供会もあり、碑を護って いるということでした。大淀がいたことで、 村にも爆弾が投下されました。  それでも、村の人々は、大淀に救援を 惜しみなく与え、その誠心が今なお継続 されていました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。