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巡洋艦大淀 凄まじい乗組員の闘魂 [巡洋艦大淀]

 艦を離れた乗組員は、負傷している 戦友をかばいながら、陸上に退避しました。 すでに事切れている戦友をつれて、浜辺に 泳ぎつく者もいました。  この戦闘中、電探士の森田中尉は、 残っていた内火艇で、重傷者を次々と 陸上に護送していました。  敵機は激しく銃撃してきましたが、巧みに 回避しながら、横転しつつある大淀から、 重傷者をことごとく陸上に収容しました。  陸上に運ばれた重傷者は、24日同様、 堤防沿いの道路に設けられた仮救護所で 村人たちの応急手当を受けました。道路に 横たわっていた重傷者は、誰からともなく、 「海行かば」を唱え始めていました。  その中にあって、高角砲分隊の杉山上曹は、 こぶしを振り上げながら立ち上がり、上空に 来襲した敵機をにらみつけ、「撃て、はやく あの敵機を撃ち落せ。」と絶叫し、事切れました。  重傷者は防空壕に収容されましたが、 重傷者のうちの何人かは、聖上の万歳を 叫びながら、絶命しました。最期まで凄まじい 闘魂を、燃やし続けていました。  近くの防空壕に退避していた兵学校の生徒は、 何人かが顔を出して頑張れと運び込まれてくる 重傷者に、声援を送っていましたが、手伝うことは できませんでした。あまりにも凄まじい乗組員の 闘魂に、気後れして手を出せなかったようでした。  この日の戦闘で、小淵氏と同郷で、一緒に 里帰りした角田上水(この当時兵長)も、戦死 しました。他にも多くの戦友や先輩が、勇敢に 戦い散っていきました。  (小淵氏が大淀を降りた後の戦闘については、 小淵氏が、田口艦長の手記と、最後まで大淀に 乗り込んでいた先輩の談話を参考に記述して いるとのことです)。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 総員退去 [巡洋艦大淀]

 敵の機動部隊が再度の襲撃をかけて きたのは、28日でした。24日に通信室を 破壊された大淀は、適確な情報は 得られませんでしたが、来襲は 予想していました。  多くの対空火器を失っている大淀は、 迎撃の砲火も途絶えがちであるのに対し、 敵機は、巧妙を極めました。  山陰から不意に現れ、機銃掃射で 甲板上の戦闘員を幻惑し、上空では 四方八方からそれぞれの高度をとって 交互に水平爆撃してきました。  さらに、水平爆撃の間隙をついて、 低空から急襲と、急降下で突入するという、 考えられる限りの猛襲を続けてきました。  立ち昇る水柱は、艦の周りを飛瀑の ようにさえぎり、視野の開けているのは、 艦の真上のみという状態が、断続しました。  この激襲に、さしもの大淀も力尽き、 刻々と右への傾斜を深め、必死に応戦 する甲板上の戦闘員も海中に滑り 落ちる者が続出しました。  艦は、炸裂する直撃弾や至近弾に 煽られるように傾きを深め、25mm機銃も 旋回不能となりました。  もはやこれまでと無念の涙を呑んで、 田口艦長は総員退去を命じました。 田口艦長自身は、防空指揮所に残ろうと しました。かし、艦首脳部の数名は、艦長の そばを離れず、退去の命令には応じません でした。  大淀は、急激ではないものの、次第に 傾いていきました。強靭さを証明するように 静かに横になり、左舷の真半分を水面上に 残し、擱座の状態になりました。  7月24日と、28日の戦闘で、大淀は、 223人の戦死者と180余の負傷者が 出ました。これは、乗り組んでいる乗員の 過半数の人員でした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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