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巡洋艦矢矧 諸元 [軽巡洋艦矢矧]

 今回から、“重巡「最上」出撃せよ“から、
軽巡洋艦矢矧を、紹介します。

 軽巡洋艦矢矧は、以前、”軍艦「矢矧」海戦記
建築家池田武邦(いけだ たけくに)の太平洋戦争
著書:井川聡(いかわ さとし)“にて
紹介したことがあります。

 そして、今回の著者井上氏も、矢矧に乗り込み、
レイテ沖海戦や大和の特攻作戦に参加しています。

 以前紹介した池田氏と同じ艦で、同じ海戦を経験
したことになります。井上氏の配置は、上部見張員の
最先任の兵曹でした。

 航海士である池田氏と関連(上司と部下の関係と
いえそうです)もする部署であり、著書の中でも、
池田氏のことを記してる箇所がいくつかあります。

 見張員ということで、戦闘の終始を、直接
肉眼で見る部署であり、網膜に残る、
レイテ沖海戦の実相は、想像を絶する
ものがあったとしています。

 軽巡洋艦矢矧の諸元をWikipediaから抜粋してみます。

起工(工事を始めた時期)  1941年11月11日
進水(始めて水に触れさせた時期) 1942年9月25日
最期 1945年4月7日
排水量:7,710トン
全長:174.5m
全幅:15.2m
吃水:5.63m
機関:ロ号艦本式缶6基
艦本式タービン4基 100,000馬力
最大速力:35ノット(予定)
航続距離:18ノットで6,000海里
兵員:700名+司令部26名
兵装:15cm連装砲3基6門
   8 cm連装高角砲2基4門
   25mm3連装機銃2基、連装機銃4基
  61cm4連装魚雷発射管2基8門
   魚雷16本、爆雷18個
零式水上偵察機2機


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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巡洋艦 軽巡洋艦の運用 [軽巡洋艦矢矧]

 軽巡洋艦について、日本海軍だけは
独自の運用を行っていました。それは、
水雷戦隊の旗艦という役割でした。

 日米開戦時、日本海軍は6つの水雷戦隊が
ありましたが、6隻の軽巡洋艦が、マストに
司令官坐乗をしめす少将旗を掲げて、
8~16隻まで子隊の先頭に立って、
93式酸素魚雷を持って、肉薄襲撃を
行っていました。

 一方、アメリカやイギリスは、軽巡洋艦は
独立した戦隊として行動し、日本海軍の
ような編成はしていませんでした。

 日本海軍は、水雷戦隊旗艦としての
役割だけでなく、各国と同様の編成による
活躍も行っています。

 アメリカは、軽巡洋艦は、空母の防空砲台
としての目的でも建造されました。日本の
秋月型駆逐艦と同様の運用であり、
軽巡洋艦の運用方法の一つと
言えます。

 日本海軍は、実験巡洋艦と言える夕張以降、
20年近く軽巡洋艦は新造されませんでした。
最新の阿賀野型は、大戦中に建造されています。

 一方で、最も軽巡洋艦を所持していたイギリスは、
敵国のドイツが6隻しか所持していなかったものの、
通商保護のために、軽巡洋艦の隻数維持に力を
入れており、戦時中30隻にも達していました。

 軽巡洋艦の沈没原因は、第一位が航空攻撃に
よるものであることは重巡洋艦と変わりありませんが、
第2位は潜水艦の攻撃となっています。しかも、
砲撃戦で沈んだ軽巡洋艦もかなりあったと
言えます。

 軽巡洋艦は、潜水艦からの通商保護や、
海戦における砲雷撃戦が、激烈に行われて
いたことを示しています。

 日本海軍の通商保護が不十分であることと、
軽巡洋艦が少ないことは、関連性があったと
言えます。


紹介書籍:重巡「最上」出撃せよ
著者: 「矢矧」井上芳太、「那智」萱嶋浩一、「熊野」左近允尚敏、最上:曾禰章、「五十鈴、摩耶」井上団平
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