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源田実参謀 妾の子 [源田実航空作戦参謀]

 五航戦司令官の原少将と幕僚たちは、
大和の連合艦隊司令部に、珊瑚海海戦に
ついて報告に行きました。しかし、多忙と
言うことで、大和の舷門で面会を拒絶
されました。

 この当時、「珊瑚海海戦を、妾の子でも
勝てた。と評しており、精鋭を誇る一、
二航戦を持ってすれば、アメリカ空母などは
問題にならない。と公言する者が多かった。」と、
一航戦の吉岡参謀は語っています。

 妾の子と言うのは五航戦のことで、五航戦が
編成されたのは、開戦直前の1941年9月の
ことで、一、二航戦より10ヶ月も遅く、搭乗員の
大部分が陸上航空部隊から来ていたから
でした。

 ミッドウェー海戦の直前の5月に、次期戦闘機の
烈風についての、要求性能について、一航戦の
意見を求める研究会が行われました。会議の後の
会食時、一航戦参謀がうぬぼれているような
発言がありました。

 そこで、艦隊外の参会者の一部は、空母は
脆弱なので、慎重に作戦を指導すべきだと
忠告しました。しかし、一航戦の幕僚は、
心配ありませんと耳を貸さなかったと
しています。

 上記の会合で、意見を求めた一航戦の幕僚
(参謀)というのは、具体的な名前が挙がって
いませんが、源田参謀であることは、確実
でした。ミッドウェー海戦の直前は、上記の
ような認識だったようです。

 源田参謀は、珊瑚海海戦を、「有利に展開
したものの、我らは追撃の意欲が足らず、
作戦目的を達成できなかった。戦闘に
勝って、戦争に負けた適例である。

 珊瑚海海戦を持って、第一段階の計画は
終わり、計画通りに行かなかったのはポート
モレスビー攻略だけである。として、切り捨てて
おり、一顧だにしませんでした。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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源田実参謀 珊瑚海海戦の教訓 [源田実航空作戦参謀]

 珊瑚海海戦は、以下の教訓を残しました。

(1)米豪連合軍は、豪州・ニューギニアから
 フィリピン方面に進もうとしていました。
 そのため、日本軍は、ポートモレスビー作戦を
 容易な支作戦と捉えていました。本来、
 一航戦の全力を挙げて、米豪海空軍と
 戦うべきでした。

(2)アメリカ海軍の戦意は旺盛で、日本艦隊に
 勇敢に攻撃を加えてきました。侮るべき
 相手ではありませんでした。

(3)機動部隊同士の戦闘は、索敵が死命を制する。

(4)敵機動部隊の戦闘機と対空火器は
 威力があり、対策が必要でした。
 この当時、アメリカ軍はわずかしか
 なかったレーダーによって、日本の
 攻撃隊接近を、130km先で探知し、
 艦対空の無線電話で、戦闘機を
 指導していました。

(5)アメリカの雷撃機は、2~3km先という、
 日本軍の倍以上の距離から、魚雷を発射
 していました。雷撃は、速度が遅く、
 見張りと操艦でかわすことガできました。

(6)アメリカの急降下爆撃は、気づかぬ
 ところから急に爆弾を投下してきました。
 しかも、命中率は相当に高いものでした。
 これを防ぐには、味方の直衛戦闘機と
 対空火器は、爆撃機に的を絞って
 戦うほうが有効でした。

(7)敵の航空機には、一発必中より
 弾幕の方が有効でした。

 上記の教訓は、翔鶴、瑞鶴が内地に
戻った時に、山本長官や、伊藤軍令部
次長に報告がなされています。しかし、
仔細に検討し、実際に対応しようとは、
しませんでした。

 上記の教訓、特に(5)~(7)を全て取り
入れていれば、ミッドウェーでの大敗北は
避けられたと言えるほど、貴重なものでした。


紹介書籍:航空作戦参謀 源田実
著者:生出 寿
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