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駆逐艦神風 シンガポール [駆逐艦神風]

 神風は、僚艦の野風を失ったものの、
シンガポールのセレター軍港に入港
しました。

 いかにも熱帯らしい両岸の景色は、
毒々しいほどに原色に彩られ、強烈な
太陽のもと、椰子の木立が限りなく続き、
切れ目に珍妙な樹木がのぞいていました。

 なにはともあれ、目的地に到着した
安堵から、雨ノ宮氏らは、安全かみそりを
出して、小さな鏡の欠片を覗き込みながら、
髭をそっていました。

 セレター軍港には、重巡洋艦妙高と
高雄が係留されていました。妙高と
高雄は浮き砲台と化しており、
10万tの浮きドックは、特務艦
知床を載せたまま擱座し、知床の
マストは、カモメの巣になって
いました。

 雨ノ宮氏は、兵器補充の目的で、
電信の下田二曹と一緒に、海軍工廠に
出かけました。

 鉄分が多いため赤褐色となっている道に、
火焔樹などの大輪の花を咲かせた大木が
生い茂り、各種の椰子が、並木のように
なっていました。

 2月ですが、常夏のシンガポールは
真夏であり、防暑服を汗でぬらしながら
歩いていました。海軍工廠は、植え込みに
囲まれた白壁の瀟洒な建物でした。

(追記)
 神風が、シンガポールに入港した時、
妙高は、1944年12月13日に、
サイゴンの南西で潜水艦の攻撃を受けて
大破した状態のままでした。妙高は、
終戦まで、シンガポールで行動不能と
なっていました。

 高雄は、レイテ沖海戦に参加していた
ものの、雷撃を受け大破し、シンガポールに
係留されていました。高雄は、終戦直前の
7月31日に、イギリス潜水艦の攻撃を受け、
行動不能のまま、終戦となりました。


紹介書籍:駆逐艦「神風」電探戦記
著者: 「夕雲」及川幸介、「早潮」岡本辰蔵、「神風」雨ノ宮洋之介
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駆逐艦神風 野風の状況 [駆逐艦神風]

 魚雷を受けた野風は、一本の火柱に
なったようでした。ボイラーに命中した
ようでした。

 夜の白むのも待ちどおしく、救助活動に
かかりました。しかし、野分が沈んだ周囲の
海域には、浮遊物があるだけで、20数名の
兵員を拾い上げたのみでした。野風乗員の
20分の1という数字でした。

 その中に、野風の司令兼艦長がいました。
冷蔵庫の上にあぐらをかいて、腕組みして
いました。

 普段はピンと張っている自慢のヒゲが
ぬれて、オットセイのように垂れ下がって
いました。

 大した怪我もなかったようで、着替えると
元気に艦橋へ上っていきました。

 生き残った乗員に、雨ノ宮氏と同じ電探員が
2人いました。幸運な生存者の仲間入りを
果たした彼らは、その後、神風の電探員に
編入されました。

 この二人から、野風が攻撃を受けた時の
状況を聞くと、ボイラーに命中して船体が
真っ二つに裂けたということでした。

 海面にいた時は、神風の爆雷が腹に響いた
そうですが、救助してくれると安心していた
ということでした。

 この二人は、この後、最初から神風に乗艦して
いたかのように、電探要員として真面目に勤務に
励んでいました。雨ノ宮氏は、この二人を見て、
若さの勝利のようなものを感じたとしています。

 暗号長は、「呉で野風が船体の塗替えを
やった時、いやな予感がしていた。死に化粧
だったのさ。」と、嫌な顔をして、指摘して
いました。

 神風は、この後二日間の航海をして、
無事シンガポールに到着しました。



紹介書籍:駆逐艦「神風」電探戦記
著者: 「夕雲」及川幸介、「早潮」岡本辰蔵、「神風」雨ノ宮洋之介
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駆逐艦神風 野風攻撃を受ける [駆逐艦神風]

 1945年2月17日、神風は、
シンガポールに向かいました。

 この頃、雨ノ宮氏は、ひどい風邪に
悩まされました。40度を超える高熱に
襲われて、電探室の隅に寝かされました。
後で、これはデング熱という風土病だと
知らされました。

 僚艦の野風が先航(野風が旗艦)し、
神風がその後を追っていました。昼間は
1.5kmの間隔とし、日が暮れたら500mに
つめての航行でした。

 2月20日の午前2時30分ごろ、
神風の逆探は、怪しい電波をキャッチ
しました。雨ノ宮氏は、そのことを
艦橋に報告しました。

 電探室は、艦橋からの伝声管がすべて
通過しているので、艦橋の会話をすべて
聞くことができました。

 そのため、この海域が、敵潜水艦が
網をはる危険海域であることを、
雨ノ宮氏は認識していました。

 そして、午前3時ごろ、カムラン湾付近に
差し掛かった時に、陸岸近くに接して
航行していた野風が雷撃を受けました。

 ズーンという予期せぬ震動がきて、機関科の
下士官が、すずしい声(雨ノ宮氏の主観)で、
「野風轟沈」と告げました。

 それを受けた当直将校が、「味方が
やられたのに、轟沈とは何だ」という
怒鳴り声が響きました。

 雨ノ宮氏は、はじかれたように旗甲板に
飛び出しました。その時に、神風は、急舵を
きり、大きく傾きました。

 雨ノ宮氏が、あたりを見ましたが、
真っ黒の海面があるだけでした。雨ノ宮氏は、
震えがきて、その場に座り込みたい衝動に
かられました。

 神風内から、「爆雷用意」「投下」という
号令が聞こえ、付近一帯に爆雷を落として
走り回りました。


紹介書籍:駆逐艦「神風」電探戦記
著者: 「夕雲」及川幸介、「早潮」岡本辰蔵、「神風」雨ノ宮洋之介
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駆逐艦神風 台湾に到着 [駆逐艦神風]

 敵潜水艦の攻撃を受けた船団は、警戒を
厳しくしながら、航行を続けました。
そして、台湾の基隆に到着しました。

 ここでは、着いたその日からずっと雨続き
でした。ふりしきる雨の中、熱帯特有の名も
知らない原色の花が咲いており、岸壁の
あちこちに建造物に敵機の掃射痕が
ありありと残っていました。

 陸軍の輸送船団がちょうど到着し、車両や
陸兵、軍馬などで、港はごった返していました。

 雨ノ宮氏は、電信帳と一緒に人通りの少ない
日本人町の方へ行ってみました。そこで、
銭湯を探して入り、玄米酒づくりなどを
物珍しく見て歩いていました。


 基隆では、残飯処分の見返りとして、臨時
配給として各自石油缶一杯の白砂糖が
割り当てられました。雨ノ宮氏は、この
配給には驚きました。早速、電探台の
陰に置くことにしました。

 甘味に飢えていた電探科員たちは、当直の
交代のたびに、缶にいれておく古いはがきを、
さじ代わりにして、口の中に放り込んで
いました。

 それから1ヶ月足らずのシンガポールまでの
航海の間に、各自が石油缶いっぱいの砂糖を
なめつくしていました。驚くべき吸収力
でしたが、そのかわり腹をくだす事に
なりました。


 その後、神風は、シンガポールを出て、
2月1日に馬公に転出しました。着いたその日に
爆撃を受けましたが、無事にやり過ごし、16日まで
この地に滞在しました。その間、航空戦艦伊勢、
日向、軽巡洋艦大淀の出撃護衛などを務めました。


紹介書籍:駆逐艦「神風」電探戦記
著者: 「夕雲」及川幸介、「早潮」岡本辰蔵、「神風」雨ノ宮洋之介
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駆逐艦神風 敵潜水艦からの攻撃 [駆逐艦神風]

 1945年1月26日、シンガポール向けの
船団護衛に僚艦野風と一緒に出港しました。
出発前に、電探員が3人追加されました。

 之字運動をしながら、鎮海湾に差し
掛かった夜半のこと、敵潜水艦軍の
待ち構える網にかかり、船団の1隻である
讃岐丸が魚雷を受けて沈没し、海防艦の
久米も炎上しました。

 この時、逆探を操作していた部下より、
「この音です」と言って、プワーという
甘ったるい感じの敵電波をキャッチして
報告していました。

 雨ノ宮氏は、当直員に、この音を聞かせ、
今後潜水艦に出会った時に忘れないように
させました。


 暗号長から、「やつらは、まず護衛を
している方から狙ってくる。近頃の海防艦は、
粗製濫造の溶接船なので、一発でカタがつく。」
と話していました(この当時、溶接はまだ
信頼性に難がありました)。

 神風は、爆雷を投下しつつ、海上を旋回
していました。燃え上がる久米が、右に
行ったり左に行ったり、艦の周りを
ぐるぐる回っているように
見えました。

 神風は、讃岐丸に便乗していた第43
震洋隊数名を救助しました。神風は、
こちらの方に時間をかけていました。

 さらに、甲板士官が、「よし。
思いっきり突っ放せ。」という命令を
していました。

 見ると、救命具付きの水死体が、神風の
スクリューに絡みこまないように、突き放し
作業をしているようでした。水死体は、
突き放しても、スクリューに引き寄せ
られるように、流れ寄ってきました。


紹介書籍:駆逐艦「神風」電探戦記
著者: 「夕雲」及川幸介、「早潮」岡本辰蔵、「神風」雨ノ宮洋之介
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駆逐艦神風 酔っ払い [駆逐艦神風]

 夜襲訓練の翌日、旗甲板を降りると、
洗面に集まった見張員たちから、
「電探長。人気上げたぜ。やるじゃないか。」
と声をかけられました。

 しかし、雨ノ宮氏は別に反応しません
でした。機械のやることなので当たり前と、
考えていたからでした。むしろ、昨日の
ように調子がいい日が続けばよいがと
考えていました。

 この日、大和から、副電測士の若い
中尉がきました。神風の電測を見て
もらうということでした。

 この中尉が、神風の22号電探を
いじくり回している内に、神風は
訓練出撃のため出港しました。

 天候も良くなく、駆逐艦の動揺は、
大和の比ではないため、この中尉は、
酔っ払ってしまいました。あげく、
その場に吐き出していました。

 介添していた雨ノ宮氏は、
「しっかりしろ」と背中をぶち
のめしました。

 兵器のある部屋に、ヘドをはかれては
たまらないという思いでしたが、相手の方が
階級は上なので、強く出られませんでした。

 後になって、暗号長のこのことを話すと、
大笑いされ、「俺を呼べば、代わりにぶん
殴ってやったのに」と言われました。

(追記)
 この当時、大和には、13号(航空用)2機、
21号(航空用)2機、22号(水上葉)の電探を
装備しており、電探においても、超弩級戦艦
らしい充実した威容を誇っていました。

 実際、夜襲訓練の際、雨ノ宮氏は、電探で
矢矧のことをとらえていた時、大和の電波を
受信していました。大和の方が、先に
神風を発見していたようでした。


紹介書籍:駆逐艦「神風」電探戦記
著者: 「夕雲」及川幸介、「早潮」岡本辰蔵、「神風」雨ノ宮洋之介
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駆逐艦神風 夜襲訓練 [駆逐艦神風]

 呉に入港すると、衣類など冬物は一切を
陸揚げして、夏服をもらいました。

 雨ノ宮氏は、夜の半舷上陸時に、厳重に
灯火管制した街を、電信の下士官たちと
歩いていましたが、真っ暗な中に、人の
群れがざわめく大きな街という印象を
受けました。

 停泊中、涼感の野風は、兵員総出で、
船体の塗替え作業をはじめました。
神風は、このような命令が出ていない
ため、雨ノ宮氏は、黙って野風の
作業を見ていました。


 やがて、訓練のために豊後水道を
往来しました。訓練は、大和と矢矧を
向こうに回しての水雷線隊独特の
夜襲訓練でした。

 帝国海軍は、伝統的に夜襲による奇襲
戦法を金科玉条とする根強い考えが
ありました。

 しかし、電子機器の発達により、敵軍は、
レーダーを装備した艦船を用いて、夜間は
もちろん気象条件が悪く視界ゼロであっても、
目標を捕捉して、いち早く照明弾をあげて、
砲火に集中できました。

 潜水艦も姿を表すことなく、目標に
向かって魚雷を発射することが
できました。

 末期には、レーダーが目標をとらえると、
直ちに正確な距離を測定して、砲撃に
直結する高性能を誇るまでになって
いました。お家芸の魚雷急襲による
「隠密急襲」はできなくなっていました。

 今回の訓練も、夜襲訓練ですが、最も
成果を上げたのは、電探でした。この時は、
故障もなく感度は最高でした。数万m先に
いる大和と矢矧の位置を正確につかみました。

 しかも、艦の大きさの違いも分かり、
「電探は、矢矧を目標にする」という
命令を実行する事ができました。

 この報告を聞いた春日艦長は、
「電探は掴んだが、見張りは
まだ見えんのか」と聞いて
いました。


紹介書籍:駆逐艦「神風」電探戦記
著者: 「夕雲」及川幸介、「早潮」岡本辰蔵、「神風」雨ノ宮洋之介
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駆逐艦神風 呉への航海 [駆逐艦神風]

 艤装工事を終えた神風は、僚艦の野風と
ともに、一路呉に向かいました。航海は、
厳冬の日本海であり、海は俺に荒れており、
雨ノ宮氏は、はげしい船酔いに悩まされました。

 搭載兵器の調整を表向きの理由に、
電探室に閉じこもり、食事は運んでもらう
ということをして過ごしていました。

 そのことで、先輩である見張長の先任下士に
呼ばれ、「たまには居住区の部下も見てやれ。」
と言われました。

 先任下士は、雨ノ宮氏の状況を知って
いながら、このように言っているわけで、
「本艦にも慣れろ。」という叱責だと
言えます。

 呉までの航海中、雨ノ宮氏は、暗号長の
田中二等兵曹と特別に親しくなりました。
田中兵曹は、雨ノ宮氏より年上で、善行章三本の
元軍楽兵でした。神風では最年長となり、
神風内では思う通りに振る舞っていました。

 雨ノ宮氏は、特別親しくなったことで、
田中兵曹の庇護のもと、一目置かれるように
なっていました。彼は、「全然楽器を手に
してない。」と寂しそうにしていました。

 田中兵曹は、音楽だけでなく、映画や演劇、
文芸などにも趣味が広く、油絵をやっていた
雨ノ宮氏とは、共通する部分がありました。

 同じ心境で、互いに心をまぎらす場面が
多いので、親しくなっていったと言えます。

 よく、暗号室でから、田中兵曹が、
「大森一水、電探長(雨ノ宮氏)を
呼んでこい。」という声が聞こえました。

 雨ノ宮氏は、大森一水の背中から顔を
のぞかせると、「やあきたか」と嬉しそうな
顔になっていました。


紹介書籍:駆逐艦「神風」電探戦記
著者: 「夕雲」及川幸介、「早潮」岡本辰蔵、「神風」雨ノ宮洋之介
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駆逐艦神風 ヤカン訓練 [駆逐艦神風]

 電探の艤装をしている帰還の夜、
雨ノ宮氏らは、「ヤカン訓練」と
称する作業を行っていました。

 内容は、ストーブにヤカンを乗せて、
ギンバイしてきた魚や肉をぶつ切りに
して煮込み、消灯後に酒を酌み交わす
ことでした。

 外泊のない下士官にとって、雪に
閉じ込められたところで行う唯一の
楽しみで、本来まずいことですが、
公然となっていました。

 電探員の間でも、ストーブの代わりに、
はんだごて用のコンロを利用して、
「ヤカン訓練」を行っていました。

 ある夜、ヤカン訓練を行っていた時に、
小太りの少尉が入ってきました。何を
しているのかと尋ねられ、ヤカン訓練
ですと返答しました。

 すると、少尉は電探室の長である雨ノ宮に
対し、「たるんでいる」として殴って
きました。

 少尉は、雨ノ宮氏に「俺が誰か分かるか」と
聞いてきました。雨ノ宮氏は、「わかりません」と
返答しました。すると、「俺は、本館の電測士だ。
今日着任した。よく覚えておけ。」と興奮の
あまり出ていきました。

 この、電測士の高井少尉は、艤装の具合を
見るために上ってきたようでした。最初の
出会いはこのような状況ですが、幾日か
すると、高井少尉も談笑の輪に、進んで
加わるようになりました。

 それどころか、「真空管をやるので、
士官室に来い」といわれ、ついていくと、
他の士官に見つからないように、ビール瓶を
渡され、「その真空管を壊すなよ。」と
言われました。

 平野上等水兵は、「電測士も話せる人
ですね。」と感心していました。


紹介書籍:駆逐艦「神風」電探戦記
著者: 「夕雲」及川幸介、「早潮」岡本辰蔵、「神風」雨ノ宮洋之介
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駆逐艦神風 電探室 [駆逐艦神風]

 大湊に帰還したカミカゼは直ちに
ドック入りして、北陽警備の任を解かれ、
連合艦隊付属となりました。

 そして、野風といっしょに南方戦線に
出撃の命令を受けました。ここで、初めて
電探が搭載されることになりました。

 電探室は、艦橋の真下の海図羅針儀室
だったところを使用しました。元羅針儀室
だったこともあり、周囲は砲金製で2坪にも
満たない広さでした。

 隣には電信室があり、こちらも二坪ほどの
広さであり、さらに一坪にも満たない暗号室が
ありました。艤装作業を進めている間、乗員は
交代で休暇を取りました。

 そうこうする内に、電探室は出来上がって
いきました。前面の楕円形部分に厚い木製の
棚をカウンター状にしつらえ、何本もの
コードが束になってはい回されました。

 その配線は、クリスマスの飾りのように、
垂れ下がっていました。電探室の外にある
旗甲板には、対空砲の機銃座を増設のため、
溶接作業をしていました。

 こちらも連日、祭日の花火のような騒ぎに
なっていました。この溶接作業が終わるのを
待って、ブラウン管や定電圧調整器などの
機器を据え付けていきました。

 後方の電信室との隔壁側に整流器や、
変調器、発信機、全波型電波探知機や
受信機が据え付けられました。こうして、
狭い電信室は、機械で一杯になって
いきました。

 今回神風に搭載した電探の正確な名称は、
「22号改四長短波電波探信儀」で、
総重量は1tにもなる堂々としたもの
でした。

 雨ノ宮氏は、老いた神風をおばあさんと
すれば、新兵器の電探は、派手なリボンに
なっているとしています。


紹介書籍:駆逐艦「神風」電探戦記
著者: 「夕雲」及川幸介、「早潮」岡本辰蔵、「神風」雨ノ宮洋之介
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