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駆逐艦神風 入団当日 [駆逐艦神風]

 雨ノ宮氏が入団した当日、一日中、
越中ふんどし一つの丸裸で、海兵団の
しょぼ降る雨の営庭を、行ったり来たり
しながら駆け足をさせられました。
これに度肝をぬかれました。

 次に、居住班での作法に、目の玉が
飛び出るほどに絞り上げられました。

 官給の身の回り品が渡されるまでに、
身体はおろか、私物類一切もぺしゃんこに
潰されたトランクの中で、クタクタのボロに
様変わりしてしまい、自分のたどってきた
人生そのもののように、全く情けなくなった
としています。

 新兵は、黒い水兵服に、何のマークも
つかないことから、海軍では、「カラス」と
呼ばれており、統制の取れない、ただ
オロオロ追い回されるだけの群れは、
カラスそのものでした。

 雨ノ宮氏は、生まれてここまでの人生の
はやさに比べ、この日の一日をえらく長く
感じました。苛酷な時間は、たやすく
過ぎさっていかないものだと改めて
思ったとしています。

 基礎訓練が終わると、今度はさらに
きつい実施部隊へそれぞれ振り向け
られました。

 基礎訓練は、整列、後進、水泳、カッター、
手旗、軍歌演習などがありましたが、これで
戦争の現場に出すわけには、いきません
でした。

 受入先の実施部隊が、現状、戦国時代の
足軽兵にもなっていない新人兵を、さらに
必要な厳しい訓練を叩き込んで使えるように
していきます。

 この当時は、戦争の成り行き自体が
かなり厳しく、次々に新規の招集が
行われていました。雨ノ宮氏は、
流行歌手の霧島昇が隣の列に
いたのを見たとしています。


紹介書籍:駆逐艦「神風」電探戦記
著者: 「夕雲」及川幸介、「早潮」岡本辰蔵、「神風」雨ノ宮洋之介
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駆逐艦神風 はじめに [駆逐艦神風]

 雨ノ宮氏は、海戦の映画はすかさず
見るようにしていると紹介しています。

 特に、駆逐艦と潜水艦の活躍を描いた
「眼下の敵」等をあげていますが、
電探の活躍があまり記されていない
ことが残念だとしています。

 日本軍が最初に電探に接したのは、
シンガポールの陥落のときで、戦利品と
なったトレーラー指揮の電探が、横須賀の
海軍通信学校に運ばれて貴重な教材
として使われたことから始まります。

 神風は、対潜、対空で数々の戦功を
あげ、感状は何度ももらっていました。
しかし、雨ノ宮氏が描きたいのは、当時の
日本海軍の電探がどんなものであったのか、
それをどのように教えていたのかを描きたい
としています。

 雨ノ宮氏は、駆逐艦神風で電探員として
活躍したという経歴を持っているので、
神風でどのように電探を実戦で使って
きたのかを記すとしています。

 雨ノ宮氏は、1943年6月1日、第二
乙種補充兵として海軍に招集されました。
当時、自営の機械設計事務所の所長として、
妻と一人娘を持つ家族でした。

 満年齢は29歳だったので、志願兵や
現役が多い海軍では異例でした。そのため、
「おい、おっさん」などと軽蔑の声で
呼ばれたことも度々ありました。

 人間とは不思議なもので、周囲から
普段そう呼ばれていると、いつのまにか、
自分はその通りの人間だと思いこむように
なるとしています。

 実際、雨ノ宮氏は、自分はモタモタした
おっさんで、使いものにならない半端な
人間だと思いこんでいました。


紹介書籍:駆逐艦「神風」電探戦記
著者: 「夕雲」及川幸介、「早潮」岡本辰蔵、「神風」雨ノ宮洋之介
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