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山口多聞 源田参謀の考え [山口多聞]

 司令部は、偵察機を飛ばすことにしました。
空母への偵察は、かなりの危険を伴い、
発見した時点で、敵の戦闘機の追撃を
受け、撃墜される危険性がありました。

 今回の作戦には、戦艦や巡洋艦に、95式
水上偵察機10機と、零式水上偵察機が
6機搭載されていました。どちらも、最大
速度は400kmに満たないもので、
機動部隊への偵察には向いて
いませんでした。

 そこで、蒼龍に臨時で積み込まれていた
二式艦上偵察機2機に発進を命じました。


 源田参謀は、山口少将からの意見具申に対し、
利根の偵察機からの報告がもう少し早ければ、
即座に躊躇なく発艦を命じていたとの
思いにとらわれていました。

 しかし、今の時点ですぐに発艦できるのは、
第二航空隊の艦上爆撃機36機のみでした。
山口少将は、すぐにでも発艦を望んで
いましたが、源田参謀は、戦闘機の
護衛がない爆撃機の発艦には
躊躇していました。

 日本の機動部隊は、護衛もつけていない
敵の爆撃機や雷撃機を次々に撃ち落として
おり、飛龍や蒼龍の爆撃機を飛ばしたら、
同じ目に合い、ほとんど帰還できないのでは
ないかと考えていました。

(追記)
 二式艦上偵察機は、この時は試作品でしたが、
液冷エンジンを搭載し、最大速度は500km
前後に達しました。

 後に偵察部隊に配属され、13試艦上
爆撃機として格上げとなりました。そして、
1943年に、艦上爆撃機彗星として登場
することになりました。

 彗星は、戦争末期には特攻機として使われ、
終戦の日に、宇垣纏中将が、この彗星に乗り込み、
自爆しました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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山口多聞 友永大尉帰還 [山口多聞]

 山口少将は、赤城からの命令がこないことに
苛立っていましたが、ここに、利根4号機から、
「後方に空母らしき1隻ともなう。針路270度。
5時20分。」という報告がありました。

 10分遅れでこの報告に接した、山口少将は、
待ち望んでいたものが来たと思い、赤城に対して
再度信号を送ることを命じました。この時、
機動部隊上空では、激しい空中戦が繰り
広げられていました。

 午前4時50分頃、友永大尉が率いる攻撃隊は、
機動部隊上空に帰還していましたが、母艦が
敵機の攻撃にさらされていたため、着艦
できずにいました。

 銃弾が残っていた零戦は、果敢に空中戦を挑んで
いきましたが、大半の零戦は銃弾を撃ちつくしており、
燃料も残り少ないということもあり、どうするか迷って
いました。

 このままで行けば、海面に着水することを余儀なく
されることになりました。中には、着艦を強行に実施し、
燃料と弾薬を補充して、直ぐさまあ飛び立つような
猛者もいましたが、間違えれば、海面に突っ込む
危険がありました。

 このような強硬着艦は、ほとんど自殺行為に等しい
荒業で、今回多く配属された新人搭乗員に
真似できる芸当ではありませんでした。

 この時、赤城の司令部では対応に苦慮して
いました。南雲長官をはじめ、草鹿参謀長、
大石主席参謀、源田参謀、吉岡航空参謀、
小野通信参謀、坂上機関参謀、田中機関長らが
司令部を勤めていました。

 南雲長官は、参謀の意見を聞いて、作戦を
進めていました。特に、理路整然と持論を
展開する源田参謀には、反駁の余地すら
ないと考えていました。


紹介書籍:山口多聞 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官
著者:松田 十刻(まつだ じゅっこく)
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