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巡洋艦大淀 司令部、大淀を降りる [巡洋艦大淀]

 マリアナ沖海戦敗北にも関わらず、大淀は、 相変わらずの猛訓練に明け暮れていました。 それは、今までにない激しいもので、下士官兵は すっかり閉口していました。  後に、砲術長が、「山本長官、古賀長官と 続けて失った現在、三代目の司令長官は、 何としても護り抜かなければならないとして、 この時期が最もつらかった。」と述懐して いました。下士官兵だけでなく、艦の 首脳部も辛苦があったようでした。  9月になり、阿部艦長は退任し、信濃の 艤装委員長(後の艦長)となりました。数日後、 連合艦隊司令部も、大淀を降り、横浜の日吉に 移りました。小淵氏は、いつの間に降りたのか、 分かりませんでした。  司令部付きの人達や大淀から従兵として 出ていた者も、一緒に退艦し、艦内はガランと しました。今まで、司令長官は、軍艦に座乗して いるのが決まりとなっていたので、陸上に 移転したことが、うら寂しさを感じさせました。  一次士官室もだいぶ異動があり、大勢で 乗り組んできた候補生も、少尉に任官し、 信濃に転勤していきました。その中には、 小淵氏がいる二分隊分隊士もいました。  小淵氏が、海軍に身を投じてから2年の 歳月が過ぎました。まだ、同期の者には 会っていませんでした。第二期の特年兵も 卒業したはずですが、大淀には配属され ませんでした。大淀には、4代目の艦長、 牟田口格郎大差を迎えました。  元の身軽な軽巡洋艦に戻った大淀は、 一様に明朗な顔つきで、出撃を待って いました。このような時に、空母信濃が 姿を表しました。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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巡洋艦大淀 あ号作戦 [巡洋艦大淀]

 前甲板には、テントが張られました。 そこは、長官や幕僚の休憩所になって おり、下士官兵は近づくことも禁止 されました。  天気の良い日に、軍楽隊の演奏を 聞きながら、長官は食事をとって いました。山本長官の時からの しきたりだそうでした。  6月に入ると、サイパンシマノ危機が 迫って連合艦隊は緊迫した空気に 包まれました。マリアナ諸島も、敵の 猛攻を受けているようでしたが、 小淵氏らは分かりませんでした。  司令部の幕僚室で、戦略物資の空輸が 成功したということで乾杯していました。 しかし、小淵氏は、ダグラス機で空輸した くらいでは、大した物資ではないだろうと 感じました。  大淀は、木更津沖と横須賀港を時々 移動しながら、あ号作戦の指揮をとって いました。  小淵氏は、連合艦隊旗艦ともなれば、 数多の軍艦を引き連れて行動するものと 思っていましたが、大淀には、1隻の 駆逐艦も従ってはいませんでした。  しばらくすると、内地にも暑い夏がやって きて、艦内も南洋にいた頃の気分が出始め ました。  その時、テニアン島玉砕の悲報が伝え られました。サイパン島も見る影がないほど 爆破され、敵が上陸したという噂が艦内に 流れました。  このマリアナ諸島の攻防戦に、小沢治三郎 中将の率いる機動部隊とトラック島で別れて以来、 見ることがなかった連合艦隊の精鋭が出撃したと 聞きましたが、どのような戦闘であったのか、 小淵氏らは、全く分かりませんでした。  空母翔鶴、大鳳、費用が撃沈したマリアナ沖 海戦のことは、大淀の乗員は、誰も具体的に 知りませんでした。 紹介書籍:“巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争” 著者: 小淵 守男
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